朝・夕の勤行唱題にはとても意味があります。
朝は、一日の健やかな日々を願い。
これまでの生かされたこと、助けてくれた人々への感謝。
または、これからの自分の夢に対して助けれくれる人への出会いを願い。
使命を全うさせてもらえるよう願ったり。
多くの笑顔が世の中にあふれるよう願ったり。
それぞれの人に、乗り越えられるだけの試練や幸せへの掲示が現れるよう願ったり。
自分は、そんなとこです。
そして、夕方は。
五体満足で終えられたことへの感謝。
前の性から引き継いできた業や、親族・家族等の業の浄化を願ったり。
日々、人は何かしらか欲にまみれています。
人とすれ違っただけでも、その人から貰ったり。
テレビ・雑誌。一人で考えるだけでも、心と体にシコリを溜め込みます。
それを浄化する作業が夕方の唱題なのです。
ようは、心のお風呂に入るようなもの。
唱題をしてない人は、お風呂に入らずに寝てしまうようなもの。
これは、ほかのどんな事をしても洗い落とせるものではありません。
そして、日々の不安や恐れ・怒りなどもすべて浄化させるのです。
これは、だれにも害のないことであり。
そとに出してしまうと、かならず自分に帰ってくるばかりか、周りの人を傷つけることにもなりかねないのです。
寝て、次の日を迎えると言う作業は、ものすごく大きく解釈してしまうと次の人生を迎えるということになります。
それは、人の一生を細分化して・・細分化して・・いくと、一日になるからです。
一日の心のしこりをとらず寝てしまうと・・、つまり死んでしまうと、次の性にそれを持ち越すことになります。
それは、前の日のことが次の日に繋がっていることを見れは分かると思います。
そういえば、以前、釈尊が言い残した究極の心理が「般若心経」である・・という言葉でセミナーをするお知らせを頂きましたが。
それは大きな間違いです。
そして、テレビでどこかの宗派のお坊さんが「一度きりの人生なのだから楽しく行きましょう」
という、おもしろい説法をすると話題になって取り上げられてました。
それも大きな間違いです。
その辺は、また今度にでも。^^
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