※信仰のさんぽ道より抜粋
・地獄の苦をうける十種の因
「涅槃経(ねはんぎょう)」という経典に私たちが地獄の苦しみを受ける「十種の因」が説かれています。
1、「愚痴のゆえ」
私たちは皆、愚かゆえに、因縁・果報の道理を正しく知ることが出来にくいのです。
だからこそ因果の道理を正しく示される「仏様の知恵」が必要なのです。
日蓮大聖人は、
「この信仰を受けることは楽ですが継続が大変です。しかし、継続することによってはじめて成仏がかなう」
と仰せです。
2、「功徳・徳行がない」
大聖人は、
「日蓮の弟子は、日蓮と同じことをしなさい」と仰せです。
そのためになにをすれば良いのか。それを教えてくれるのが御書(ごしょ)であります。
3、「悪行が深く重い」
私たちは、縁に触れ、地獄の苦しみを受ける業因を自分自身で作ってしまいます。
時には、自分の発する何気ない言動で己の功徳を奪うこともあります。
つねに自分で律し、行いをかえりみることが大切です。
4、「懺悔(ざんげ)をしない」
私たちは、時に道を間違え、教えをおろそかにすることもありますが、自らかえりみることもせず改めないのは愚かなことです。
5、「過去世の功徳がない」
私たちは現在のみならず、遠い過去からの「悪業」を、知らず知らずのうちに引きずって生まれてきています。
これらの罪障を朝・夕の勤行・唱題にて消滅させていかなければならないと言えます。
6、「悪業を習う」
信心の力はみな同じです。ただ、拝する「本尊が正しくなかったり」、「修行が間違っていたり」などの多くの落ちていく原因があり、悪道に染まっていくのです。
7、「戒(かい)の財(ざい)がない」
戒とは防非止悪(ぼうひしあく)(非を防いで悪を止めること)であり、謗法(ほうぼう)という仏の正しき教えをそしる行為を言いますが、それをいましめる心です。
つまり己を律し、欲に負けず、法を守り、善業を積み重ねなさいと言われているのです。
8、「信仰を遠ざける」
私たちにありがちな、なまけ心や疑いの心が、それをさせるのです。
9、「身・戒・心・慧がない」
信仰を身をもって行い、規則を守り、心で一心に信じ、教えを学ぶ、ことが大事なのです。
10、「悪知識に近づく」
日蓮大聖人は、
「事故によって死ぬことがあっても、地獄・餓鬼・畜生という苦しみの境涯に入るとは限らないが、悪知識を受けたまま死んでは、必ず苦しみの境涯に落ちる」
と仰せです。
私たちは「耳あたりの良いこと」や「人の悪口」は心に入りますが、それが怖い、ということを観じなくてはならないのです。
逆に「善知識」に近づくからこそ自分の果報も正しく導かれるのです。
以上、十の因をあげましたが、いくら教えがあっても、それを実行して自分のものにしなければ絵に描いた餅に過ぎません。
知識だけ蓄えても、なにも成すことはできません。
行動にうつして、はじめて仏様の功徳を我が身に受けられるのです。
「まず、すべきは」もしくは「これだけしていれば大丈夫」ということは、日蓮大聖人がのちの世に残された「戒壇のご本尊」を拝し「南無妙法蓮華経」を唱えることです。
すべてはそこから改善されていきます。すべて開かれていきます。